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東大曲小学校 古四王神社

 古四王神社は、元亀元年(1570年)に冨樫左衛門太郎が古川村大工甚兵衛に建立させたもので、明治41年に特別保護建造物に指定され、後に国宝建造物とされ、文代財保護法の制定と共に重要文化財に指名された。

 天沼俊一という人は「この建造物は建築様式に全くこだわらず、和唐天を超越した天下一品の建物である」と説いている。

古四王神社とは

古四王神社のご案内(壱)

 仙北平野を南北に走る奥羽本線の大曲駅と飯詰駅のほぼ中間地点、広い田園に囲まれて天を仰ぐ老樹の中に小さい社があります。
 これが元亀元年(1570年)卯月に当時の大曲城主『冨樫左衛門太郎勝家』が、武運長久を祈ってこの地へ神宮寺から移った際に健立したもので、祭神は大彦命です。
 もっともこの神社は前からこの地にあったものですが、あまりにも壊れているので城主が孔雀城を築いた際、再興したものであると伝えられてきました。

 この神社の本殿は、入母屋造、千鳥破風、二重繁、三方椽、妻入れ、一間社で総体にわかって室町時代末期の特色を濃厚に見せています。
学問的にみますと、美術建築の最高権威であった東大教授伊藤忠太博士は、「奇中の奇、珍中の珍」と感嘆され、また、京大教授の天沼俊一博士も、「和、唐、天を超越した天下一品の建物」と絶賛し目を見張られています。

 この建築の作者は古来から飛騨の匠と言い伝えられてきましたが、昭和5年、文部省の解体修理のとき「古川村、(岐阜県古川町)の大工甚兵衛」の墨書が出て、飛騨古川の甚兵衛の作と判明しました。
今まで、幾多の兵火をのがれ、風雪に耐え大曲の変遷を見つめながら今に至っております。

古四王神社のご案内(弐)

 さて、本殿でありますが、大鳥居をくぐると大きな木彫り神馬を左に見て拝殿の軒下を後方に回ると幣殿が現れ、このはりを虹梁をもいい、これを彫刻している菊の浮彫りがあります。
 これと横上にある藤の唐草の彫刻がまたすばらしいものです。その菊の浮彫りの上に、おしどりを図案化したかえるまた蟇又といわれる支えがありますが、これまたどことなく面白く、平和的であります。

 本殿の西側に回ると玄関先と本殿に登る階段の上のギボシは、木目を利用した一本造りで、大変珍しいものです。

 さて、目をずっと上げて屋根下の組織を見ると、釘を一本も使用せず、木材の組み合わせによって、重そうな屋根を支える装置には全く感心させられます。

 南側に回ると、ずっと上、東南隅の屋根の支えの中の斗(四角なマス状の台)の一つに甚兵衛の墨書が入っています。
 そのまま、真下にある礎石を見るとそこには、ちょうど柱の下を丸く石が刻まれています。
 この丸い中に梵字が入っていて康暦年間(1380年頃)の供養碑であったことがわかります。
 以上述べたように、「和・唐・天」という当時の建築上の三様式を完全に融合超越したすばらしいアイデアばかりなのであります。

古四王神社の伝説

 元亀元年といえば、室町末期で、天下がもつれた麻のように乱れ、騒乱にあけくれた時代でした。
 特に古四王神社の近辺は県南地域を二分してにらみあっていた、戸沢氏と小野寺氏の領地の接点として戦火も烈しかったとみえて、古四王の宮も燃打されたと古記録にあります。

 この様な中で、二つの伝説を紹介します。

 一つは、昔、この里の道辺にあった大きな石に、ある日、さんさんと輝く白いひげを生やした、見るからに気高い老人がお休みになっていたのです。
 後になって、その白髪の老翁は、大彦命(四道将軍の一人)であったことがわかり、里人たちが、おそれ多いことだと、祠を作って祀ったのが始まりというものです。

 二つめは、延暦元年(782年)に、東方から一人の老翁が来臨しそこにあった光輝く不思議な一尺四面(30cm四方)の意思を打ちくだくと、中から瑠璃の薬壺が出たので、これこそ古四王大権限のお出ましだと、草堂を建てて祀ったというもので、古四王堂縁起という古い文書にあります。

甚兵衛の伝説

 飛騨国吉城郡小鷹刈村の五神社社拝殿は室町期の建築で、飛騨匠の作といわれ、その手挟四枚のうち一枚は鯉が彫刻されています。
 時の古川城主塩屋筑前守秋貞の命により古川の名工某が宮川に身を沈めて祈願し、火難をまぬかれんとして彫った鯉であります。
 不思議にもその鯉はつねに水を呼び、向拝から水がしたたり落ちていました。
 名工はこれをみて漂然と旅立ちました。

 ところが鯉はいよいよ水を呼び、宮川は増水し、社前に淵ができました。(いま五社淵という。)
 氏子は驚いて作者を尋ねて水気を止めんとしましたが、工匠は越後に行き、出羽に行って死亡したという風の便りがありました。

 この名匠こそ、古川甚兵衛でないか、といわれています。

高畑孔雀城跡

 かつて高畑の名家として幾百年、大曲の地に君臨した冨樫家はその先祖冨樫左衛門太郎勝家と称し、その源は俵藤太の秀郷でありもともと加賀の国に長く住んでいたのですが、その後この地に孔雀城を築き居を移したのです。
 たまたまこの城を築くときに飛騨の名工を招いてその名工のもとに、この地方の大工たちによって建てられたものです。

 孔雀城は明治29年の大地震で倒壊し、城というより陣屋風の堅牢な建物で30cm角の大柱7本から成り立っています。
 南の玄関を入ると、15畳、15畳、10畳の本間があり、その北側128畳の本間(書院)、さらに8畳間が4つ並んでいました。
 城は二重の水濠でかこまれ、内濠は現在も残り、土塁の後も見えますが、その周囲にめぐらした外濠は田地となって跡かたもありません。

 また土塁の内部にある庭園は室町期の代表的な名園でしたが、今は荒れはてて面影を残すばかりです。

 なお孔雀城の礎石には古四王神社と同様、板碑を用いていたといわれています。

古四王神社のあゆみ

明治38年、文部省古寺保存会嘱託伊藤忠太工学博士調査
明治41年4月23日、国宝特別保護建造物に指定(内務省告示第43号)
昭和5年7月、解体修理(玉垣、幣殿新設)
昭和10年、京大教授、天沼俊一博士調査
昭和24年、県で屋根大修理
昭和25年8月29日、国重要文化財に指定
昭和30年10月屋根大修理
昭和57年7月本殿防災施設工事(自動放水銃2基設置)672万円
昭和58年11月本殿防護柵修理
昭和61年11月本殿屋根大修理

飛騨の匠

古四王神社(国重要文化財・秋田県大仙市)

 仙北平野を南北に走る奥羽本線の大曲駅と飯詰駅のほぼ中間地点、広い田園に囲まれ天を仰ぐ老樹の中に小さな社(やしろ)がある。

 これが飛騨古川(ひだふるかわ)村出身(今の吉成郡古川町)の飛騨の匠(たくみ)、「甚兵衛(じんべえ)」作といわれる大曲市の古四王神社である。

 この古四王神社本殿の建立は、氏子総代(うじそうだい)の富樫家の古文書に

  古四王代権現建立(こしおうだいごんげんけんりつ)
  元亀元年(1570)卯月吉日(げんきがんねん(1570)うづききちじつ)
  戸沢六郎 又 兵部トモ云傅也(とざわろくろう また へいぶともいうなり)
  奉行 富樫左衛門太郎(ぶぎょう とがしさえもんたろう)


とあって、富樫家の祖、誠白より7代目左衛門太郎勝家が領主戸沢兵部の命により元亀元年(1570)に奉行として建築したものであると伝えている。

 古四王神社は屋根が入母屋造こけら葺、千鳥破風、二重繁垂、三方椽、妻入の一間社で、前面に向唐破風一間の向拝を附してあるが、総体にわたって室町時代末期の特色を濃厚に見せている。
 向拝頭貫に刻まれた菊の浮き彫りは、まれに見る傑作とされ、鴛鴦(おしどり)風の蟇股(かえるまた)、特異な擬宝珠(ぎぼし)、中備の鼓状の束、絵様繰形のある多数の木鼻、長押上で中断する円柱。
 柱間の欅桟等々、室町末期建築の特徴に加え、その自由な手法は従来の基本形式にこだわらない地方色の濃い、珍奇独特の手法といわれている。

 明治38年(1905)には京都帝国大学教授の伊藤忠太郎工学博士は、その報告書の中で「手法法縦磊落端倪(しゅほうほうじゅうらいらくたんげい)すべからず、実に珍中の珍、奇中の奇なり」と感嘆し、明治41年には特別保護建造物指定を受けた。
 また、昭和5年(1939)には京都帝国大学天沼俊一博士が調査に来たが、いずれも「奇中の奇」なる手法を認め、全国古建築の異彩とした。
 そして、『日本建築史図録・室町編』には、「要するに従来の建物の様式にとらわれず、和・唐・天を超越した天下一品の建築である」と天沼博士は激賞している。

 大曲市が全国に誇るべき建造物で、昭和25年8月9日、国の重要文化財に指定されている。

 このように、室町末期の「和・唐・天」という3様式を完全に融合しながら、更に独創的な表現手法を取り入れた建造物で、学術的にも極めて高い評価を得ている社殿の作者は、地元大曲では古来より「飛騨の匠」と言い伝えられてきたという。

 そして、昭和5年(1930)、文部省の解体修理のとき、東南隅の屋根の支えの中の斗(四角なマス状の台)の一つに「古川村(今の岐阜県吉成郡古川町)大工甚兵衛」の墨書が入っていて、飛騨古川の大工甚兵衛の作と判明。
その伝説がほぼ伝承の史実と一致する発見であった。

 元亀元年(1570)といえば、室町末期で天下が乱れ、騒乱に明け暮れていた時代である。
 飛騨古川より大工「甚兵衛」は、きわめて遠い異国の地へどのような経緯で、どのようにして赴いたのか知る由もないが、幾多の兵火をのがれ、厳しい風雪に対峙して、大曲の変遷を見続けながら築後430余念を経た今日も、秋田県大曲市の地に威風堂々と「飛騨の匠」の技を今に伝える古四王神社が存在するこの事実は、私たち飛騨人にとっても、大きな誇りであると同時に、大きな喜びでもある。

資料提供/大仙市教育委員会

総合的学習からの研究

日本と大曲・仙北を比べてみて

時代
日本の歴史
大曲仙北の歴史
室町
1338
京都に室町幕府が開かれる角館に戸沢氏、千畑に本堂氏、六郷に六郷氏がいた
1354
 宝蔵寺建立
1467
応仁の乱がおこる 
1570
 冨樫氏が戸沢氏の奉行として古四王神社を建立
安土桃山
1573
室町幕府が滅びる。
織田信長・豊臣秀吉が活躍した
 
1587
 唐松野合戦
安東氏・戸沢氏・小野寺氏が連合軍と激突
1600
関ヶ原の戦いがおこったころ 
1602
 佐竹氏が秋田にやってきて国を治めた
江戸
1603
徳川家康が江戸幕府を開く 
1730
 市が盛んに開かれる
(角館・白岩・六郷・大曲・角間川・刈和野など)
明治
1868
明治維新がはじまる戊申戦争が始まり、大曲仙北も戦場となる
1881
 明治天皇が大曲仙北を訪れた
1894
日清戦争がおこったころ 
1876
 孔雀城が地震で壊れる

神宮寺に来た富樫氏について

1.富樫氏の始まり
 冨樫氏は初代 利仁(としひと)という人が加賀の国(今の石川県)で生まれました。
 なので、石川県が富樫氏の始まりなのです。

2.神宮寺に来た富樫氏は?
 冨樫家は初代 利仁から二代三代と続いていき、そして十七代の高家の血を引く、冨樫誠白が神宮寺に来ました。

 神宮寺に来た誠白は、まず、内館城(うちだてじょう)というおやしきに住みました。
 次の年、氏神(うじがみ)の白山権現(はくさんごんげん)と菩提寺(ぼだいじ)の宝蔵寺を加賀の国より移しました。
 宝蔵寺は大正時代に新しく建て直しました。
  
 宝蔵寺のお坊さんの話によると
  「神宮寺は環境がいいから富樫氏が来たと思います。」と言っていました。

3.大曲に来た冨樫氏
 冨樫氏の六代目 忠之左衛門孫五郎(ただゆきさえもんまごごろう)という人が1508年に大曲のお屋敷に移りました。そして1536年に領主戸沢氏の家臣となりました。

4.高畑に来た冨樫氏
 冨樫氏の七代目の勝家佐衛門(かついえさえもん)は戸沢氏と六郷氏が戦っていて、その見張り役として高畑に来ました。その時に古四王神社と孔雀城を建てました。

飛騨の匠 甚兵衛について

1.甚兵衛について
 甚兵衛は古四王神社を作った人です。
 古四王神社の作者は昔から飛騨の匠と言い伝えられていましたが、昭和5年文部省の解体修理の時「古川村(岐阜県古川町)の大工 甚兵衛」と書いたものが出て、
 飛騨古川の甚兵衛の作と分かりました。

2.甚兵衛は彫刻も得意だった
 甚兵衛は古四王神社を作りましたが「力士像」という彫刻も作りました。
 小刀一本で作った彫刻としては、素晴らしく高く評価されています。

3.甚兵衛は秋田県にどうやってきたか
 次の四つの説があります。
 ・万遊説 ・修行説 (全国をまわって修行をしていた)
 ・出奔説 (けんかをして東北に逃げてきた)
 ・招聘説 (飛騨の匠を招いた)
 この説の中では「招聘説」がもっとも有力だと言われています。

古四王神社の造り方の秘密

1.昔の技術はすごかった!
 古四王神社を造るのに釘を一本も使っていません。それなのになぜくずれないのだろうか?
 それは「竹釘」を使ったからくずれないのです。「竹釘」は実は堅かったのです。
 しかも簡単には折れません。
 一度くずしてもう一度造ろうとしたが、昔の技術は複雑で造り直せませんでした。
 それほど昔の技術はすごかったのです。
 ※竹釘は主に屋根に使われていました。

2.古四王神社はとても珍しい作り方だった!
・「奇中の奇 珍中の珍」
 美術建築に詳しい東大教授 伊藤忠太博士が古四王神社がとてもかわっていて珍しいことに感激して言った言葉です。

・「和・唐・天を超越した天下一品の建物です」
 和→日本、唐→中国、天→天竺(インド)のことです。
 この古四王神社は、和、唐、天が三つ合わさってとても珍しい国の文化財となったのです。
 京大教授の天沼俊一博士もほめています。

3.甚兵衛の特技
 甚兵衛は彫刻が得意です。得意な彫刻で数々の作品を作りました。
 藤の唐草の彫刻や蟇又の彫刻、菊の浮彫り、
 そして、力士像なども作り、古四王神社に残されています。

富樫氏の歴史

1.鎌倉時代の富樫氏(12代 泰家)
 1182年、木曽義仲・平氏・討伐の挙兵に応じ平維盛(これもり)の率いる十万の大軍と対陣。
 倶利伽羅(くりから)峠において炎々に燃えさかるタイマツを 巨牛の角に結びつけて敵陣に追いやり夜襲をかけて大勝。
 その後、義仲が頼朝に討たれたので富樫泰家は野々市にて謹慎(きんしん)。
 頼朝にゆるされて加賀国の守護に任ぜられる。
 
 1187年、兄頼朝の誤解から追われていた源義経一行を
 安宅関(あたかのせき)に迎えた泰家は、武士の情と弁慶の読み上げる「勧進帳」に関心して義経一行を無事に通過させた。
 そのことによって、頼朝の怒りにふれて位をとらられて泰家は頭をそり、名前を仏誓と改め奥州平泉(今の岩手県)に至り義経と涙の対面をする。
 その後、しばらくこの地にとどまり、後に野々市に帰り一生を終える。

2.室町時代の富樫氏(17代 高家)
 1333年、足利尊氏につき国を治め1351年京都において戦死。
 1352年富樫誠白神宮寺に来る。

3.安土・桃山時代の富樫氏(24代 政親)
 一向宗の本願寺派門徒が政親を、高田専修寺派が弟幸千代の味方をして争いが起こり、政親が勝って加賀の国守護職を手中におさめた。

 その後、一向宗が力をもち年貢をおさめず、従わなかったので、政親は弾圧をはじめた。
 闘は大きくなり1488年農民の連合軍の総攻撃にあい34歳で自殺した。
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